流体熱力学質量分析法の開発

質量分析法は、単独での利用はもちろん、クロマトグラフィーをはじめとする他の様々な分析技術と組み合わせて利用される。その適用範囲の広さおよび有用性ゆえに、質量分析法は今や世界中で標準的に用いられる分析手法の一つとなった。感度向上や分析対象の拡大など、質量分析の進化は日々続いているが、一方でその原理は20世紀初頭における質量分析の黎明期以来、未だに変わっていない。すなわち、真空環境下でイオン化した試料を分析するというものである。本稿では、筆者らが最近開発した、真空環境やイオン化を必要としない全く新しい原理に基づく質量分析法「流体熱力学質量分析」について、その特長を紹介し、従来の質量分析では実現が困難であった、新たな展開の可能性についても言及する。

柴 弘太

国立研究開発法人 物質・材料研究機構
国際ナノアーキテクトニクス研究拠点 ナノメカニカルセンサグループ
研究員

しば 弘太こうた

吉川 元起

国立研究開発法人 物質・材料研究機構
国際ナノアーキテクトニクス研究拠点 ナノメカニカルセンサグループ
グループリーダー

吉川よしかわ 元起げんき

はじめに

質量分析は、測定対象物をイオン化し、電気的あるいは磁気的な作用などによって分離して、測定・検出する手法である。これにより、既知物質の同定や未知物質の構造決定が可能となる。質量分析はガスクロマトグラフィーをはじめとする様々な分析手法と組み合わせて用いられており、その活躍の場は食品、環境、医療、農業、化粧品、犯罪捜査などきわめて多岐に渡る。一方、20世紀初頭に世界初の質量分析器が開発されて以来、最新のマトリックス支援レーザー脱離イオン化法(MALDI法)に至るまで、質量分析の原理は常にイオン化と共にある。試料をイオン化して分析するには真空環境を作り出すための装置が必要であることから、質量分析器は今なお高価かつ大型であり、主に専門の研究・分析機関における分析機器として利用されるにとどまっている。近年、ナノメートルサイズの共振体への吸着に着目するなど、全く別のアプローチによってイオン化を必要としない質量分析法も開発されているが、やはり真空環境や高周波測定などが必要であり、従来の質量分析法と同様に小型化が困難であった1),2)。このようなイオン化や大型装置、真空環境といった従来技術の抱える諸課題が解決され、例えば携帯電話やその他モバイルデバイスへの実装が可能になれば、質量分析が個人レベルでも利用可能となり、爆発的な需要と、従来用途にとどまらない多様な展開が見込まれる。

流体熱力学質量分析(AMA)の概要

1.従来手法との比較

本研究では、気体の分子量を大気中でリアルタイムに直接測定可能な全く新しい手法を、世界で初めて開発することに成功し、流体熱力学質量分析(Aero-Thermo-Dynamic Mass Analysis;AMA)と命名した3)。AMAと従来の質量分析との比較を表1に示す。

表1 従来型の質量分析法と本手法の特徴比較

ここから分かるように、AMAは従来の質量分析には無い様々な特長を有しており、装置の小型化に伴うモバイル実装など、質量分析の新たな展開に大きく貢献する手法となることが期待される。現状では、分子構造の同定を除く全ての項目において、特筆すべき点があることを確認している。以下では、AMAの特長について解説する。

2.動作原理と基本性能

本節ではAMAの動作原理と基本的な性能について述べる。AMAの動作原理はきわめてシンプルであり、実験において必要なことは、①カンチレバー(片持ち梁。一端が固定され、もう一端が自由になっている、プールの飛び込み台のような構造体)に対して一定流量の気体を吹きかける、②それによって生じるカンチレバーの変形(たわみ)を測定する、以上である。図1Aに概念図を示す。我々はいくつかの気体試料(ヘリウム、窒素、空気、アルゴン、二酸化炭素)を用いて同様の実験を繰り返すことで、カンチレバーのたわみと、吹きかける気体の分子量との間に相関があることを見出した(図1B、赤の●)。詳細な理論的検討の結果、流体力学・熱力学・構造力学の諸法則を組み合わせることでこの相関の定式化に成功した。解析計算によって導出された解析解は次の通りである。

ここでz(0)はカンチレバーのたわみ、K1、K2は実験条件によって決まる定数、Mは気体の分子量、μは気体の粘性係数である(式中には分子量と粘性係数という二つの変数が含まれるが、atanがπ/2に漸近するため、比較的多様な条件下でz(0) ≒ π/2・K1・Mと近似することができる)。図1Bの灰色の破線で示したとおり、この解析解は実験値とよく一致することが分かる。さらに、有限要素法(数値解析により近似解を導くシミュレーションの一手法)による検証を行ったところ、得られた結果は、実験値および解析解ときわめてよく一致することが確認された。以上の三重の検証により、AMAの科学的妥当性が証明されたと考えている。

図1 A)有限要素法によるシミュレーション結果。カンチレバーに対して下方向から気体試料を吹きかけている。B)様々な気体試料の分子量とカンチレバーのたわみとの関係。灰色の破線で示す解析解と赤丸の実験値、青丸のシミュレーション値が良く一致している。

AMAの気体識別能力を確認するため、分子量の差が1g/molに満たない窒素(28.01g/mol)と空気(28.97g/mol)の測定を行った。図2から、このような僅かな分子量の差であっても両者を明確に区別可能であることが分かる。さらに、空気と窒素を1:1の割合で混合し、平均分子量28.49g/molとした場合であっても、窒素および空気と区別できることを実証した。シグナル-ノイズ比(S/N)から計算すると、本研究で用いたセットアップではおおよそ0.04g/molの違いまで識別可能である。さらに、前述の解析解を参考にしてカンチレバーや気体の流量などを最適化することで、識別能力の大幅な向上が期待できる。

図2 カンチレバーに対して空気(分子量:28.97g/mol)、窒素(分子量:28.01g/mol)、および空気と窒素の1:1混合気体(分子量:28.49g/mol)を吹きかけた際のたわみを示す図。3者の分子量の違いは僅かだが、たわみの大きさが明確に違う。

今回の実験で、気体の流れによって引き起こされたカンチレバーのたわみは、数十nmから数μm程度と小さく、これを正確に計測するため、デジタルホログラフィック顕微鏡(DHM)という特殊な顕微鏡を使用した。DHMはサブnmという非常に高い垂直方向の分解能を有しており、かつ15fps以上のフレームレートでの観察が可能であるため、今回必要とされた、垂直方向の変位を正確かつリアルタイムに計測するという目的に対して、重要な役割を果たした。AMAの実用化に向けては、DHMを使用せずにたわみを計測する必要があり、これにはひずみゲージなどが利用できる。AMAが原理的に真空環境およびイオン化を必要としないことを踏まえれば、将来的にはモバイル機器への搭載が視野に入るほどの小型化も実現可能となる。

3. 気体の流れの可視化

AMAで混合気体を測定する場合、その平均分子量が得られる。そのため、分子量が既知の2種類の気体が混合された試料を測定すると、それらの濃度比を得ることができる。これを応用することにより、管などから吹き出す気体の様子などを可視化することが可能となる。可視化するためにはまず、ポンプなどを利用して噴出口の周囲の気体を採取し、採取点における濃度比(多くの場合、噴出する気体と空気との混合気体が採取されるはずである)を求める。これを、採取位置を少しずつ動かしながら繰り返し、各採取点における濃度比を算出する。そうすることで、図3に示すように、気体濃度比をマッピングすることができる。図中ではヘリウムとアルゴンの場合についてのマッピング結果を示している。ヘリウムはアルゴンと比較して拡散しやすい性質があるため、横に拡がる傾向があるのに対し、アルゴンは直進していく様子が確認できる。それぞれ有限要素法によるシミュレーションにおいても、実験結果と同様の傾向が見て取れる。このような可視化技術を利用することで、例えば排ガスなどの流れを定常的にモニタリングし、異常成分が混入した場合にそれを検知するといった応用が可能となる。

図3 ヘリウムおよびアルゴンが大気中へ噴出する様子を本手法により可視化した図。各気体試料において、左が実験結果、右が有限要素法によるシミュレーション結果を示している。

4.液体試料の分子量測定

AMAは気体試料を対象とした質量分析法だが、液体試料であっても、気化させることによってその分子量を決定することが可能となる。一例としてペンタン、ヘキサン、ヘプタン(いずれも室温で液体状態の化合物)を気化させ、ヘリウムをキャリアーガスとしてそれぞれ一定流量でカンチレバーに吹きかけたところ、そのたわみからペンタン、ヘキサン、ヘプタンの分子量が算出できることを実証した(図4)。これはまさに、ガスクロマトグラフィーと接続して使われている従来の質量分析器と同様の構成であり、今後そうした展開を考える上でも基本となる実証結果である。ガスクロマトグラフィーとの組み合わせについては、連続的に濃度が変化する試料をどのように分析するかといった問題など、クリアすべき課題が残されているが、分析システム全体の大幅な小型化が可能であるため、さらなる検討を重ねて将来の実用化につなげていきたい。

図4 A)ペンタン、B)ヘキサン、C)ヘプタンを気化させ、ヘリウムをキャリアーガスとしてカンチレバーに吹きかけた際のたわみを示す図。D)ペンタン、ヘキサン、ヘプタンの分子量を、ヘリウムをキャリアーガスとしてそれぞれの化合物をカンチレバーに吹きかけた際のたわみに対してプロットした図。

5.実環境下でのデモンストレーション(名刺のたわみから吹きかけた気体の分子量が分かる)

前述したように、AMAの原理はきわめてシンプルであるため、図1~4の実験で用いたシリコン製の微小なカンチレバーに限らず、様々な物を利用することができる。一例として、手で持った名刺を利用した質量分析の様子を図5に示す。一定流量の窒素とアルゴンを名刺に吹きかけ、その際に得られるたわみ量からそれぞれの分子量を見積もることができる。また、これらの値は、解析解によって計算されるたわみ量と分子量との関係とも良く一致することが確認できる。このように、本手法は実環境下において誰もが簡単に実施可能であり、発想次第で研究用途にとどまらない広い応用展開が期待される。

図5 A)手で持った名刺に対して窒素およびアルゴンを一定流量で吹きかけた際の様子。気体の種類によってたわみ方が異なる。B)Aで得られたたわみを分子量に対してプロットした図。破線で示す解析解と良く一致していることが分かる。

INTRO

物質・材料研究機構(NIMS)国際ナノアーキテクトニクス研究拠点(MANA)の概要

MANAは、世界トップレベル研究拠点プログラム(WPI)において選定された9つの研究拠点の一つである。世界の優れた研究者がぜひ参加したいと願う世界最高の研究水準と魅力的な研究環境をあわせもつ新しいタイプの研究拠点として、2007年に発足した。ナノテクノロジーを統合することによる全く新しい機能やシステムの発現を目指してMANAが提唱している「ナノアーキテクトニクス」という新概念は、次期改訂版の広辞苑に収録されるに至っている。これまでのMANAの研究成果の統計的な指標として、Elsevier社が「異分野の研究機関の発表論文の質を公平に比較する」目的から新たに考案した指標Field Weighted Citation Impact(FWCI)のMANAの値は2.38(2017年3月)と国内では群を抜いており、MITやハーバード大学など世界トップクラスの大学・研究機関と肩を並べている。MANAでは以下に示す4つのGrandChallengeを目標に掲げ、研究活動を推進している:

・ナノアーキテクトニック脳型ネットワーク

・室温超伝導

・実用的人工光合成

・ナノ知覚システム

その他、MANAは研究成果だけでなく、「国際化」や「若手研究者を育成する効果的なプログラムの確立」といった面でも、日本で最も優れた研究機関の一つと高く評価されている。

質量分析技術の現状

本稿でも述べられているように、質量分析技術の発展に対する世界の関心は大きく、とりわけ2002年のノーベル化学賞が質量分析法に対して与えられて以来、その傾向はますます強まっている。なかでも「小型化」は、質量分析法の様々な分野への多角的な展開に向けて切望されている。しかしながら、質量分析法は、その原理的な制約により、モバイル化に至るまでには大きなブレークスルーが必要であると考えられていた。AMAのように全く異なる原理の質量分析法が確立したことで、これまで想像もしなかったコンシューマーレベルでの質量分析法の実現可能性も膨らみ、質量分析の裾野が大きく広がっていくものと予想される。

■ナビゲーター
MANA 副拠点長・事務部門長
中山なかやま 知信とものぶ

今後の展望

本手法「AMA」をモバイルデバイスへ実装すれば、個人レベルでも利用可能な質量分析器が実現し、それに伴う爆発的な需要と、従来用途にとどまらない多様な用途展開が期待される。より具体的には、従来の質量分析器でカバーされていた食品、環境、医療、農業、化粧品、犯罪捜査などに加え、分子量に基づく健康管理(呼気による健康チェック、口臭/体臭測定など)、環境モニタリング(エアコンでの室内環境測定や動植物の状態管理など)、防災(危険ガスの漏出チェックなど)など、質量分析の新たな応用が期待できる。また、研究用途としては、ガスクロマトグラフィーと組み合わせることで、多成分の気体試料についても簡便な装置で成分分析を行えるようになることが期待される。今後は、実用化に向けて小型デバイスを作製し、上述した様々な分野でのオンサイト・リアルタイム測定を想定し、その実現可能性を検証していく予定である。

このほか、これまで何気なく眺めていた「風に揺れる木々」なども、実は空気の分子量を反映しているということが分かるようになることで、物事を多角的に検証することの面白さや重要性を再認識するきっかけとなることが期待される。

謝辞

本稿で紹介した研究は、日本学術振興会(WPIMANA)、科研費若手研究(A) 23685017、および(公財)東電記念財団によって行われた研究成果を含んでおり、ここに深く感謝申し上げます。

参考文献

1.Chaste, J. et al. A nanomechanical mass sensor with yoctogram resolution. Nat Nano 7, 301–304 (2012). 2.Hanay, M. S. et al. Single-protein nanomechanical mass spectrometry in real time. Nat Nano 7, 602–608 (2012). 3.Shiba, K. & Yoshikawa, G. Aero-Thermo-Dynamic Mass Analysis. Sci. Rep. 6, 28849 (2016).

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